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若手生産者

若手生産者 加藤貴彦

足久保ティーワークスの工場長。

祖父の代からは家業としてお茶があり、他の足久保の人々と同じように、生活のすぐ近くに茶畑がありました。父親が小学生の時に他界。以来、祖父と共に、母親・姉たちとお茶を続けてきました。
転機となったのは28歳の頃。ずっとお茶を続けてきた祖父も80代後半となり作業が思うようにできなくなってきました。姉達も結婚しそれぞれの生活がある中、家族ぐるみのお茶作りも、今のままでは難しいと感じてきていました。山が好きできこりとしての仕事もしていましたが「今の茶畑が無くなった時、すごく寂しく思うんじゃないだろうか」と感じたと言います。自分がお茶を中心に仕事をしていくことで、お茶を続けていけるのではないかと考え、『お茶をやっていく』ことを決意したのでした。
当時のティーワークスの組合長から「本格的に続けていくなら、生葉を納めるだけの準組合員より、(荒茶)工場の管理も関わる正組合員になって、早くからいろいろ知った方がいい」と助言を受け、正組合員に。工場でのお茶の管理を知り、どのようなお茶が良いのか、そのためにはどんな茶園管理がいいお茶につながるのか、毎年試行錯誤を続けていきました。
「お茶を続けていきたい。茶畑を守っていきたい。」この気持ちとは裏腹に、お茶の市場価格は下がっていきます。
「今まで通りの売り方だけではダメではないか、もっと直接販売しに行ったり、もっと若い人にも知ってもらえるようにしていくべきではないか」と考えるようになりました。しかし、約800年の歴史を持ち、良いお茶が採れるという足久保、お茶一筋でやってきた人達には「自分達はただひたすらに良いお茶を作ることだけをやっていればいいんだ」と反対の声も、当時はあったと言います。しかし、このままではいけないという考えに共感した若手の組合員と共に、動き出す決意をしました。
幸い、農業者の新しい取り組みへの補助金があることを知り、それを大いに活用していくことができました。足久保に住む知人のデザイナーさんに新しくロゴデザインを作成してもらい、パッケージを一新。「若い人に気軽に立ち寄ってもらいたい」→コーヒーのように気軽に飲める、ドリンクスタンドはどうか、と調理師の免許を持つ仲間(哲平)の知識を活かし、ドリンクメニューなどを決めていきました。店舗もパッケージに合わせ雰囲気を一新。デザイナーさんの力を借り、他の若手も協力してお店を新しくしていきました。試行錯誤の中、茶畑の管理や冬の山仕事の合間を縫って、店舗管理やイベント出店したおかげで、少しずつ、今までとは違った、新しい層のお客様も増えていきました。その変化に呼応して、店舗に関わるスタッフも増え、スタッフが増えることで今まで出来なかった取り組みもできるように。
「若い人たちにもお茶を知ってもらいたい」というところから、「お茶を続け、守っていくために、たくさんの人たちに足久保ティーワークスを知ってもらいたい」と気持ちも変化し、さらに飛躍つつあります。「自分がやらなきゃ」と動く気持ちとその姿に、周りの人達が引き寄せられ、その動きが大きくなっていきます。これからも、その一歩が波となりうねりとなり、風が集まり、足久保から広がっていくことでしょう。

若手生産者 松永哲也

足久保ティーワークスの生産管理担当。ブラジル伝統的格闘技カポエイラ道場「ナゴアス静岡」代表

父親からの茶農家を引き継ぐ。
自分達でお茶を育て製茶する「自園自製」の家だったため、子供の頃から手伝いもしており、ゴールデンウィークにはどこにも行けず、お茶に良いイメージはありませんでしたが、お茶に大きくしてもらった思いもあり、就職してからもお茶時期には職場から休みをもらって、家のお茶仕事を手伝っていました。
20代半ば、足久保に共同工場(ティーワークス)を作る話になり、そこに参加することを聞きます。松永家は、足久保の中でも奥の方。それまで個人で荒茶製造や市場・茶商への販売をしていたのを共同で行うことで、協力して力を持とうという共同工場。しかし、お茶のピークが遅い奥の地域の生産者にとっては、早い時期の地域に比べて不利。共同に入って良い部分もあれば、個人の時よりやり方を変えなければならないと感じたと言います。
それからさらに数年後、人手不足からティーワークスの茶製造工程に入って欲しいと話があり、そこからティーワークスに本格的に関わっていくことになります。数年、そうやって過ごしていく中で、父から「(自分と)代わって正組合員になってほしい」と言われ、組合の運営にも関わることになりました。茶園の管理は父母と一緒に続けていましたが、そこから数年が経ち、父も母も体調を崩したこともあり、完全に茶園管理を全部任せたいと言われました。そこで辞めるという選択肢もあったのですが「今まで当たり前にあったお茶が無くなったらどうなるんだろう、お茶という仕事、茶畑という景色。あの景色が無くなるのは、寂しいな」と思ったと言います。それを機に茶園経営に本格的に取り組み始め、今のままでは本当に食べていけないと改めて実感。これからも続けていける茶園作りを意識していきました。
農閑期には木こりの仕事と共に、ティーワークスと同時期に始めたカポエイラとの三刀流を続け、ずっと抱いてきた自分だけのスタイルが出来上がりました。日本の文化と、地球の裏側のブラジルの文化で培った経験と知識が、物事をいろいろな方向から見ることができるようになり、活かされています。
長くお茶にかかわる中で、子供の頃はやりたくないと思っていた時期もあった「お茶」という存在が、今では「みんなで作る」楽しさを感じ、新しい取り組みを行って良くなってきている実感のある前向きなものに。特に感じるのはみんな「なんだかんだ足久保が好き、足久保のお茶をどうにかしたい」という想いがあること。「お茶を続けていきたい」という想いだけでなく、「世の中にティーワークスのお茶を広めていきたい。お茶でほっとする気持ちや、そのひと時を楽しめる、お茶の魅力も伝えていきたい。」という想いも強くなってきました。
一見関係ないと思える、自分の関わってきたものが、つながってきた手ごたえ。まだまだ「花開いた」とまでは言えなくても、将来みんなが生活も気持ちも潤う生活をお茶でできるように、そして次の世代につなげていけるような、そんな未来を描いています。

若手生産者 佐藤元

足久保ティーワークスの仕上げ加工を担う、茶農家でもあり茶師。

佐藤家の茶農家としての始まりは、祖父が戦争から帰って、結婚を機に始めたと聞いています。お茶が盛んになり、元さんが子供のころ、個人としての荒茶工場を建てた記憶があり、お茶の中に暮らしがありました。子供のころは、茶農家の家庭によくあるように、「またお茶の時期が始まったんだなぁ、みんなの様にゴールデンウィークに出かけたりできないなぁ」と家族の様子を眺めながら思ったそうです。
祖父母・両親でお茶の作業は行い、たまに茶畑での作業などを手伝ってもいました。高校を卒業し、就職しましたが、25歳の頃祖父が他界。残った家族だけでお茶を続けるのは大変だろうと感じ、就農。そのころ、ティーワークスができた頃で地域の茶産業も盛んでした。父親もティーワークスに正組合員として加入。当初はティーワークスに関わるのは父親が中心で、元さんは家の畑・ティーワークスそれぞれを手伝うという形でした。
10年ほど経ち、そろそろ正組合員を引き継ぐことになり、工場の当番にも中心的に加わるようになりました。父親は、個人で荒茶工場を持っていたころから、荒茶工場の最後・お茶を整える精揉機の扱いに長けており、一緒にお茶に携わる中で、どんなお茶が良いお茶か、良いお茶がどんなものか、長くお茶に関わる中で少しずつ聞いてきたといいます。家業としてのお茶の中でも、ティーワークスの中でも中心メンバーとして動く中、ある年、ティーワークスでずっとお茶の仕上げに携わってくれていた方が、ご年齢もありついに引退。体調を見ながら急な引退でしたが、少し前から作業を手伝っていた元さんに白羽の矢が。
小さいころから何かを作るのが好き、茶農家としての面の他にもエクステリア関係の職も持ち、何かと器用にこなす元さん。「仕上げ」という職人の勘も必要になってくる仕事も向いているのではと、仕上げの担当を行うことに。最初は様子を見ながら、メンバーと確認をしながら行っていましたが、徐々にコツをつかみ、足久保ならではのコクを引き出しつつ、上品な仕上がりのお茶にしてくれています。特技を活かし、店舗のリノベーションなどにも貢献してくれている元さん。根底には、「自分達で作ったお茶を、もっと自分達の手で売っていきたいよね。」という想いがあります。自分の手で何かを作るのが好きな元さん、自分達のお茶を、直接飲んでくれる人にもっと届けられるように、そうすることで、これからももっと美味しいお茶を作っていけたら。そんな想いを込めて、お茶を育て、仕上げています。

若手生産者 海野哲平

足久保ティーワークス会計。

海野家も祖父の代から家業としてお茶があり、祖父母、父がお茶を続けてきました。
学生の頃から、茶時期になれば時折手伝いはするものの、父も無理強いはせず、親戚も含めて茶業を続けていたので、積極的に関わっていたわけではありませんでした。
高校を卒業後就職。
茶時期は仕事が休みの時に手伝っていましたが、ある年、たまたま茶時期の前にそれまでの会社を退職。まだ就職活動もしていないタイミングだったため、そのまま茶時期の戦力として駆り出され、さらにすでに父親が組合員としてティーワークスにも所属していたこともあり「工場のアルバイトも入ってくれないか」というきっかけでティーワークスに関わることに。
当時は今よりお茶の量が多く、生葉の受け入れなども多く、家の畑の手伝いより忙しかったといいます。そのまま茶時期を終え、その後の畑の管理も続けていくうち、来季の新規就農者を申請する時期に。このタイミングでかかわったのも何かの縁と、翌年、父に代わってティーワークスの正組合員として加入したのです。加入後は、実家が近く、畑も近場が多い貴彦さんと共同摘採を行うことに。
足久保の畑は乗用型の機械が入れない傾斜のある畑が多く、2人で持って使う可搬型摘採機を使う畑がほとんど。2人ペアになって作業を行うことが効率的でもあり、何かあった場合の安全面も考慮し2人で行動することがほとんどです。性格的にも、条件的にも相性がよく、共同摘採もうまく進めることができました。そのうち、小売りに力を入れる話が起こり、カフェにも力を入れたいという話に。もともと調理が好きで、学校卒業後に調理師を取得していた哲平さんの知識を生かして、カフェドリンクの商品開発が行われました。
レシピ作りもさることながら、飲食店として営業するための手続きや設備など茶農家だけでは難しい面を支えていきました。更に運営面では足久保ティーワークスの会計に。若手茶農家の中では最年少、比較的静かなタイプですが、だからこそ確実に仕事をこなすことが、今のティーワークスを支えています。

若手生産者 児玉裕也

足久保ティーワークスの所有する茶畑を管理。

他の若手生産者とは異なり、足久保ではなく、足久保を含む美和地区の、ごく普通のサラリーマン家庭で育ちました。
高校を卒業後就職しましたが、社会人となった数年後に、当時の勤務先が廃業。転職を余儀なくされました。その際、知人から「今ティーワークスで人が欲しいらしい」という話を聞き、新茶時期のティーワークスに入りました。
当初からティーワークス管理の畑の管理を指示され、少しずつお茶の管理を学んでいきました。特に農家の家庭ではありませんでしたが、始めてみると「この仕事は自分に合う」と感じたといいます。特に、お茶の管理は「やった分だけかえってくる」。お茶のことを考え、作業をしてあげれば、それが良いお茶になり、手ごたえを感じられる。そこにやりがいを感じ、気づけば早10年。
当初から関わってきたティーワークス管理の茶畑の面積も増えました。2021年から始まった「茶畑オーナー制度」の対象茶園「山あいの茶畑」も裕也さんの管理です。
今では新茶時期、日中の工場管理を任され、ティーワークスの中心メンバーの一人に。
ティーワークスは少しずつ変化していきますが、「手を掛けたら返してくれる茶畑。工場では昨日の様子や、目指すお茶の様子をお互い共有して。ティーワークスはとても居心地が良い。僕はみんながしたいことに、ついていきますよ」。しっかりとついてきてくれるその姿勢に、みんなが安心して仕事を任せています。

若手メンバー

若手メンバー 宇野明日真

足久保ティーワークス・カフェ担当。北の国からお茶を学びに来た淹れ手。

北海道の一般家庭に生まれ育ち、特にお茶と特別な関わりがあったわけではありませんでした。転機が訪れたのは大学生の時。進学先の青森でお茶のイベントに出会いました。そのイベント・携わる人々の雰囲気がとても魅力的で「お茶をもっと知りたい」と思うようになり、そこで初めてお茶を購入。急須も持っていなかったため、量販店で手ごろな急須を買ったのが始まりでした。同時にコーヒーの魅力にも引き込まれていきます。どちらにも共通していたのは「淹れて飲む」こと。幸運にも、お茶もコーヒーも扱うカフェでアルバイトを始め、両者に対する知識を深めていきました。大学生という時期も活かし、様々な人と関わる一方、一人で没頭するものも求めていました。お茶もコーヒーも、その物と向き合い、自分と向き合うことができるもの。さらに、毎日の生活でいろいろと悩むこともあった時、そのよりどころとなったのは、カフェという場所・そこで働くバリスタの人々でした。生活の中で、お茶とコーヒーが、大切な存在になっていきます。
一方で、卒業後の進路に関しては迷いが生まれていきます。専門系の大学を選び「誰かの役に立ちたい」と考えて進んだ大学でしたが、学びを深め、実習などが進むにつれ、自分の考えと現場での「役に立つ姿」とに、差があることに気づき始めました。自分が違和感を持ったまま、人の役に立てる仕事はできない。自分が納得して初めて、責任を持って伝えて、社会に還元できるものに携わりたいと考えるようになりました。そこで見えてきたのが、カフェの仕事、お茶、コーヒーと言った、自分の心のよりどころとなったものたち。自分のように誰かに必要とされて、役に立てるのではないか。お茶もコーヒーも好きだし共通点は多いが、コーヒーは中には飲めない人もいる、お茶ならどんな人でも勧められる部分があって普遍性がある。また、お茶の世界もちょうどシングルオリジン(単一農園)のお茶が出始めていました。お茶という身近なものだからこそ、新たに発見した時の感動があるのではないか、お茶にもっと向き合いたい、一度腰を据えて、お茶の世界をもっと知りたいと思うようになりました。
そんな折、足久保ティーワークスが「お茶の仕事をしたい人」を探していることを知ります。問い合わせをし、意思の確認を重ね、受け入れることが決まりました。(ティーワークスとしても、まさか遠く北国から興味を持ってくれるとは思わず、嬉しい反面こういった例がなかったため、会合で何度も話し合いを持ち、迎え入れることになりました。)
新茶前から静岡に身を移し、1年間畑や工場を中心に働いてきました。まだまだ分からないことばかり。必死すぎてとらえきれないことがたくさんですが、作っていく楽しさも日々感じていると話します。お茶に関わる人たちと一緒に、価値あるものを社会に届けながら、それがこの先も続くように・この場所があり続ける様にしていきたい。「お茶に関われるならなんでもいい」と思って、茶畑もない地域から足を踏み入れたお茶の世界。入ってみて痛感することは、お茶を伝えていくためには、飲む人も入れる人も、お茶を作る人も、いろいろな人が入ってこないと、お茶が続いていかないという、現実。危機感も感じています。お茶に対して何かしたい人の例になれたらいいなと思うし、伝えていくことで、自分を迎え入れてくれたお茶の世界に対して恩返しもしていきたいと考えています。
冬からは店舗・カフェの方にも入り、伝えることに重点を置いた仕事になってきました。お茶を淹れること。それを中心に、お茶の世界を伝えていきたいと、未来を見つめています。

聞き手・書き手

聞き手・書き手 石川茜

足久保ティーワークス小売り担当。店舗運営・オンラインショップ・SNS・茶畑オーナー制度などを担当する。日本茶インストラクター。

ごく一般的なサラリーマン家庭で育ちました。静岡出身の母が日常的に静岡茶を飲んでいたので、奈良で育ちましたが日頃から意識せず静岡茶を飲んでいました。
結婚を機に静岡へ。静岡で就職したのがお茶屋さんでした。仕事を取り組む中で、しっかりした知識を持ちたいと、日本茶インストラクターを取得。自社以外のお茶ももっと知りたいと、静岡を中心に自分と同世代の人々が作る美味しいお茶がたくさんあることを知っていきます。好きな接客の仕事で、お茶屋さんの店頭に立ってきましたが、子供も生まれ自分も歳を重ねる中で、ライフスタイルの変化が必要だと感じ、退職を決意。
ずっと店頭で新茶を始め、お茶を伝えてきましたが、実際にお茶がどのように畑で育ち、作られているのかは知識としてしか知らないことに物足りなさも感じていました。静岡茶の美味しさを、茶畑に近いところから伝えたいと、自分と同世代の人々が頑張るこの場所に魅かれ、足久保ティーワークスの門をたたきました。仲間に入れてもらってまず感じたのは、「自分と同世代の、美味しいお茶を作る人たちが頑張っている。でもそれは、元々の仕事の合間に、どうにか頑張って多少の無理をして活動している部分がある」ということでした。これまでお茶に興味を持たなかった人にも気軽に来てもらえるよう、カフェやオンラインショップに取り組んではいるけれど、一方で茶畑や工場の仕事の合間に行い、なかなか本腰を入れて手をかけられない、という事実も目の当たりにしました。足久保出身でも茶農家でもない自分を迎え入れてくれたティーワークスのみんなに感謝し、これまでの経験を活かしてそういった部分を自分がカバーしていきたい。ここにいるみんなが作った美味しいお茶が、どんなふうに作られているのか、そういったところも合わせて伝えて、お茶をより楽しんでもらいたい。一人のお茶が好きな人として、伝えていきたいと思い、日々過ごしています。
このページでは、足久保在住でもなく茶農家でもない、だけど身近な仲間としての石川の目線から、足久保ティーワークスのこれからを担うメンバーを紹介しました。